宗教に入ると過去の日記が恥ずかしくなくなる原理

アタシの名前はミカ。

ユーキャンでカラーコーディネーターを目指していた親友のアケミを、イラついた拍子に三節棍で撲殺してしまった過去を持つ悲しき女子高生。
昼休み、優雅にひとり姫ランチと洒落込んでいると、両隣の個室から楽しげなクラスメイトたちの会話が聞こえてきた。内容があまりにもくだらなくて、思わずお弁当箱を持ったまま便座から立ち上がってしまったアタシ。
今日はその会話を元に日記を書こうとおもう。ちょっぴりスパイスの効いた攻めの文章になっているから気をつけて。肉食ガールの本領発揮だよd(>_< )


『むかし自分が書いたものって読み返すと顔から火が出るほど恥ずかしくなる時ない?』
『あぁ!それわかるー』
『そんときアツく語ってたこととか行動が、いまの自分からするとめっちゃズレてる感じして』
『あぁ!それわかるー』


…待って。これって当たり前なことで、むしろ昔と今に変化があることを安心すべきじゃない?
変わらないって、すごく強い。でも同じ分だけ怖い。ミカちゃんそう思う。


安易な共感が生む安心と、思考放棄の魔性。ニッポンには今これが溢れ返っている。チープな宗教が蔓延してる。
宗教って言ったってなにも教典があって教祖様がいて、そいつがラブホテルを経営してるようなやつだけじゃないよ。
信仰する人間に対しブレない真理の対象として存在し続けてくれさえすれば、それはもう立派に宗教になりうる。
ようは迷える子羊ちゃんたちが、その宗教が提示した真理に従うことで、引き換えに迷いのない悩みのない世界にご招待されてしまうってシステムが一番重要なの。


いま若者の間に流行ってる“インターネットメディア崇拝”だってうさん臭い事この上ない宗教の一つだとアタシは思うわけ。
「新聞やテレビの情報は悪の検閲がかかっていて歪曲された情報であり、ネットに流れる情報はクリーンな正しい情報」って、アイツらなにを根拠にそんなこと信じてるのかな。
連日連夜、2ちゃんねるのニュース速報板にはそんなインターネットメディア崇拝者が集まって、自らの正当性を叫び、顔の見えない仲間の書き込みで共感を得て安心しているよね(たとえば痛いニュース(ノ∀`) : “若者、新聞読まない…”朝日新聞に続き、毎日新聞・産経新聞も半期赤字転落 …「新聞の危機」いよいよ表面化 - ライブドアブログ)。



伝言ゲームじゃないけど、情報が人を介して人に伝えられる以上、そこには少なからず主観や思想が入り交じる。完全に濁りのないクリーンな情報なんて存在しないのに。それが分かっても尚新聞やテレビをけなしネットを称えるのカナ。
そもそも情報の正しさってナニ?情報に対し正しさを求めてる時点でおかしいとミカ思います。
正しさは情報を受け取る人間に内在する尺度だから。


自分では完璧な取捨選択ができたつもりで、ネット配信のニュース読んで悦に浸り、ネット環境を持っていない人間を「情弱」だなんて言葉で罵るマヌケが、ミカいちばんムカついちゃう( ̄∩ ̄#


考えること悩む事を止めるのは、人間を辞めるってことでしょ。昨日の自分が恥ずかしくて結構。今日も間違って明日も間違って、ふらふらした足取りで唸りながら煩悶して歩いていきなさいよカスども。それが本当の強さでしょ?


―――という文章を「美熟女ならあるいは…」と思い始めてきたまさるお兄ちゃんを正当化させるため書いてみました。地球の砂漠化ばりに急速な進行を見せ、変化してゆくお兄ちゃんの性的趣向。ミカは刑務所にエロ漫画を届けなくちゃいけない日が何時くるのかと毎日ヒヤヒヤしています。